『カワイ』と『ヤマハ』どちらが凄いの?カワイ楽器製作所『竜様工場』への旅 Part.2
素敵な師弟関係から生まれた
日本の2大楽器メ−カ−
カワイ&ヤマハ
私たちの目には
競い合いながら
質の高い楽器を生み出している
ライバル会社とうつります
でもルーツを辿ると
単なるライバル会社ではなくて
この2つのメーカーさんには
素敵な繋がりがあって
深い絆があることを
知ることができました
今日は
人物に触れてみたいと思います
一人一人を丁寧に
生涯にわたって
ピアノを楽しむことを実現
習い事も多様化の時代
その中
ピアノを習うと
どんな良いことがあるのか?
その魅力を発信
長野県諏訪市にある
きたざわ ゆみこ音楽教室 です
(#1824日目)
工場に到着すると
応接室へとご案内いただき
するとこんな素敵な画面が
私たちを歓迎してくれました
今回ご案内くださった
三浦様が
私たちを迎えるために
いろいろと工夫を凝らして
作ってくださったことが
とっても伝わってきました
娘は相撲好きで
とお伝えてあって
この歓迎の画面です
そして
私たち家族は歴史が好きで
とお伝えしてあったこともあり
今までは聴いたこともない
ピアノ業界のお話を
スライドでわかりやすく
お話ししてくださいました
工場へ向かう前には
カワイ楽器製作所
創立者の河合小市様の
ご自宅があったところ
そして
ヤマハの創立者の
山葉寅楠様のお墓
をご案内いただいたのですが
河合の社員でいらっしゃる
三浦様が
山葉寅楠様を大切な方と
お感じになられていることにも
胸を打たれました
その理由は
お話から
理解することができました
なぜ!?浜松で楽器産業が発展したのか!?
そのきっかけは
一人の技術者と
一台の壊れたオルガンとの
出会いにありました
技術者というのが
山葉寅楠様
医療器械の修理工として
浜松を訪れていた時に
小学校の校長先生から
一台のオルガンの修理を
依頼された
1887年(明治20年)
寅楠さま35歳のとき
この出来事が
「音楽のまち・浜松」に
楽器産業の種が撒かれた
瞬間ですね
この時に
オルガンが故障していなければ
どんな現在に
なっていたんでしょうか?
出来事って必然的に
起こるものなんですね
こうして撒かれた種
はどうやって
育まれたのでしょうか
そうしたお話を三浦様の
お話から知ることができました
山葉寅楠様は1851年(嘉永4年)
和歌山県に生まれ
↓
山葉家には天体観測や土地測量に関する
書籍や器具などがたくさんあって
↓
自然と
機械への関心を深めていき
生まれつき手先も器用であったこと
↓
明治維新・文明開化の
新しい時代の流れの中
時計づくりの勉強を開始
↓
医療器械に興味を持つようになって
医療器械の修理工として浜松へ
↓
小学校にある
高価なオルガンが故障
修理の依頼を受ける
↓
修理をしたことで
オルガンの構造に興味を持つ
↓
自分にも
オルガンを作ることができる
と自信を得る
↓
世の中の動きとして
将来
オルガンは全国の小学校に設置される
↓
外国製の高額なオルガンを
輸入しなければならない
↓
ならば国産のオルガンを作れば
コストを抑えることもできるし
国益にもつながる
↓
寅楠様36歳で
最強の協力者
かざり職人の河合喜三郎様に出合う
↓
二人で試行錯誤を繰り返して
オルガンが完成
↓
揃って
東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)
音楽取調所の伊沢修二学長を訪ねる
伊沢修二学長は
長野県の高遠のご出身
この方もやはり音楽教育にとって
重要な方なので知っていましたが
↓
音楽理論の勉強を勧められる
本格的なオルガンづくりに取り組む
↓
輸入品に負けないオルガン
と評価を得る
↓
国産オルガンの誕生
このように
時代の流れとともに
山葉寅楠様は
「楽器王」と呼ばれる
存在になられたのです
そして
寅楠様のもとで修業していた
カワイ楽器初代社長
河合小市様につながります
山葉寅楠様は
1916年(大正5年)8月8日
65年の生涯を閉じられました
命日はちょうど工場見学の
翌日でした
お墓を訪れた際の様子は
こちらのブログです
コースターも
ピアノの形でした
ということで
明日はピアノ工場の見学の話へと
進みます
『カワイ』と『ヤマハ』どちらが凄いの?
ってどう感じられましたか
私は「一蓮託生」
なんて言葉が思い浮かび
ピアノという楽器への
愛着が益々強まりました
今日も
最後までお読みくださり
ありがとうございます
きたざわゆみこ音楽教室
392-0016 長野県諏訪市豊田2068-1
時間:9:00~20:00
定休日:日曜・祝日
体験レッスン受付中